貴志地区の学校はどうであったか??
2004年1月26日田村さん作成
2022年5月12日修正貴志 稔再掲

学校のこと    ー 初めの頃 向(むかい)小学校がー      
 明治5年(1872年)8月3日 今から132年前、我が国に学制が公布されました。
これは我が国民全体が教育を受け、文盲の人をなくし立派な国造りをめざした措置で画期的事業でした。

ちなみに明治8年の記録によると、当時和歌山県の就学率は男子34.2%、女子9.2%、
平均22.0%(全国平均は35.4%)でした。

 小学校が開かれるまでは、寺子屋と呼ばれる塾があって、旧家や富豪師弟は主として読書、習字、
算盤(よみ かき ソロバン)などを学習してきました。
 
この貴志地区に始めて学校が出来たのは、明治6年10月で、 梅原村に梅原小学校が創立しましたが、
明治9年に廃校なっています。

 そして明治9年4月に向村に向小学校(貴志小学校ともいう)が、
栄谷村に栄谷小学校(境谷小学校ともいう)が創立しました。 

 明治33年(1900年)11月19日には 向小学校と栄谷小学校が合併して開校式が行われ、
学校名は貴志尋常小学校となりました。クラスは2学級、児童数は88人、正教員は2人でした。
尋常小学校は4年間の学習でしたから複式学級だったのでしょう。

 向小学校で学び、明治33年度卒業生、即ち貴志尋常小学校第1回卒業生として
貴志小学校創立100周年記念誌(平成13年3月10日発行)の卒業生名簿に掲載されている
西本キミエさんは向の方です。住所は 向132番地 で、キミエさんは西本嘉昭さんのおばあさんです。
 その西本キミエさんが93歳のとき、向小学校について口述した内容が記念誌に出ているので
紹介しましょう。
 
『 向の個人の家をかりて仮の校舎にして使用した。現在の西本さんの屋敷に9軒続きの長屋があって
そこを借りた。次に現在の貴志 弘さん宅の屋敷も借りて勉強した。

 当時の先生は三沢佐太郎先生と中村先生と2人だった。 三沢先生は今の三沢商店の祖父で、
中村先生は貴志中のお寺の僧侶であった。 机は4人がけの木の机で、4人ならんですわった。 
4年生で卒業した。

 学校へは希望者だけ行った。女の子が少なかった。10数名位しかなかった。
それ以上勉強したい人は町の高等小学校へ歩いて通学した。向では男子2人しかなかった。 
新しい貴志小学校の誕生当時、川原崎小学校があり、向小学校と合併して新しい土地さがしに行った。
 土入西・土入北・中野・延時・中・向・梅原・栄谷の八ヶ村の代表者が会議をした。
 現貴志小学校は高台にあり、水の便(当時は井戸)が悪いから反対が多かったが、
川原崎の角さんという人が引力があって決定した。

 竣工式、大勢の人が新しい学校を見にいった。2校舎で、高等小学校もあり、
立派なものであった。
 高等小学校へは、深日、孝子の人も、山ごえをして毎日歩いて学校へ通った。 』

 
 当時の卒業証書です。
  校長の三沢佐太郎先生は向の方で
 三沢家は現在も向にあります。


ここで貴志小学校の生徒数の推移を主な年度の卒業者数で表してみます。
                          卒業者数
  明治 33年 (1900年:第1回卒業生)       18 人
  大正  元年 (1912年)              20
昭和  元年 (1926年)                33
  〃 20年 (1945年:終戦の年 )         37
  〃 50年 (1975年)              65
  〃 57年 (1982年;卒業生数 最大に)     178
         昭和59年6月8日 貴志南小学校が開校
  平成  元年 (1989年)             109
  〃 15年 (2003年;貴志南小は 52人)    94
 
昭和50年頃より市域の人口の動勢が変化し、旧市内の生徒数が減少、周辺部が増加するドーナツ化
現象がおこりました。貴志地区は急激に人口が増加し、それが現在も続いています。
貴志小学校の生徒数は長い間安定していましたが、児童数の増加のため昭和59年
貴志南小学校が私たちの地区内 中野に分離 開校しました。