和歌山県
2010年5月26日作成・BIGLOBE百科事典引用

温山荘園
大正初期から昭和初期にかけて、武者小路千家家元名代の木津宗泉により作庭された
潮入式池泉回遊庭園である。ニッタ創業者である新田長次郎の別荘庭園として作られた
もので、面積は59,400m2で日本全国で17位、個人庭園としては日本最大である。
名称は新田の雅号である
温山より帝国海軍元帥・東郷平八郎が命名した。
紀州の名園として名高く皇族らがしばしば来訪し、
随行した桂太郎、清浦奎吾、東郷平八郎、秋山好古らの扁額が主屋「温山荘」に
掲げられている。海から水を引くことで潮の干満に応じて水位が上下するという
汐入りの池が主屋を中心に、3つ配され、その周囲に茶室や座敷が点在する。
園内にあるトンネルを抜けると黒江湾を望むことができる。

橋杭岩
橋杭岩(はしぐいいわ)は、和歌山県東牟婁郡串本町にある奇岩群で、吉野熊野国立公園
に属している。同町の大字鬮野川(くじのかわ)の小字橋杭の、紀伊大島に対向する
海岸から紀伊大島方面へ南西一列におよそ850mもの長きにわたって大小約40の
岩が連続してそそり立っており、橋杭岩とはその岩の総称である。直線上に岩が立ち
並ぶその姿が橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれている。また干潮時には
岩の列中ほどに附属する弁天島 (和歌山県)まで歩いて渡ることが出来る。
伝承によると、昔弘法大師が天の邪鬼と串本から沖合いの島まで橋をかけることが
出来るか否かの賭けを行い、弘法大師が橋の杭をほとんど作り終えたところで
あまのじゃくがこのままでは賭けに負けてしまうとニワトリの鳴きまねで弘法大師に
もう朝が来たと勘違いさせ、弘法大師は作りかけでその場を去ったために
橋の杭のみが残ったということになっている。
橋杭岩を通して見る朝日はとても美しいと評判で日本の朝日百選の認定も受けている。また、
国の名勝や国の天然記念物の指定も受け観光名所となっている。

根来寺庭園
光明真言殿と本坊・名草御殿の間にある自然の滝と池を取り入れた
池泉式蓬莱庭園の池庭(江戸時代作庭)、枯山水庭園の平庭(江戸時代作庭)、
平安時代開創より遺る聖天池、以上3つの日本庭園が国の名勝に指定されている。

 





瀞峡









那智滝
那智四十八滝那智原始林内には多くの滝があるが、このうち48の滝に番号と諸宗教
(神道を中心に、儒教、仏教、道教、陰陽五行説など)にもとづく名が与えられていた。

これらの滝では、青岸渡寺開祖と伝えられる裸形上人をはじめとする宗教者たちのほか、
花山法皇も二の滝の断崖上に庵を設けて、千日滝篭行をしたと伝えられている。しかし、
明治期の神仏分離令・修験道廃止令によって、これらの行を支えた神仏習合的な
信仰が失われるとともに、明治初期からは所在や名称も不明となっていた。

だが、1991年、わずかに残された古文書を手がかりに、地元の有志・新聞社・僧職などが
四十八滝探査プロジェクトを行い、再発見に成功した。また、1992年からは青岸渡寺の
手によって、那智四十八滝回峰行が再興されている。


粉河寺庭園
「粉河寺縁起」には2つの説話が語られている。1つ目の話は粉河寺の草創と千手観音
の由来に関するものである。紀伊国の猟師・大伴孔子古は宝亀元年(770年)のある日、
山中に不思議な光を発する場所を見つけて、そこに小さな庵を営んだ。
これが粉河寺の始まりという。その後のある日、孔子古の家に一人の童子(童男行者)が
訪ねて来て、一晩泊めてくれと言う。童子は宿を借りたお礼にと言って、7日かけて
千手観音の像を刻んだ。8日目の朝、孔子古が見てみると童子の姿はなく、
金色の千手観音の像だけがあった。
孔子古は殺生をやめて観音を信仰するようになったとのことである。

2つ目の話は千手観音の霊験説話である。河内国の長者・佐太夫の娘は
重い病で明日をも知れぬ命であった。そこへどこからともなく現れた童行者が千手千眼陀羅尼を称えて
祈祷したところ、娘の病は全快した。喜んだ長者がお礼にと言って財宝を差し出すが童行者は受け取らず、
娘の提鞘(さげざや、小太刀)と緋の袴だけを受け取り、「私は紀伊国那賀郡におります」と言って立ち去った。
長者一家が那賀郡を尋ねて行くと、小さな庵に千手観音像が立ち、観音の手には娘の提鞘と緋の袴があった。
長者一家は、あの行者が観音の化身であったことを知ってその場で出家し、孔子古とともに粉河寺の繁栄に
尽くしたとのことである。
以上の説話がどこまで史実を反映したものかは定かでないが、粉河寺は平安時代には朝廷や貴族の保護を
得て栄えたことは確かである。清少納言の『枕草子』194段には「寺は壺坂、笠置、法輪(中略)石山、粉川、志賀」
とあり、『梁塵秘抄』に載せる今様には、「観音験(しるし)を見する寺、清水、石山、長谷の御山、粉河(後略)」とある。
西行の『山家集』や、架空の物語である『うつほ物語』『狭衣物語』にも粉河寺への言及があるなど、
遅くとも平安時代中期・10世紀には観音霊場として著名であったことがわかる。平安時代後期には、
その頃から始まった西国三十三箇所観音霊場巡りの札所の1つとして栄えた。

養翠園
紀州藩第10代藩主徳川治寶によって、文政元年(1818年)から文政9年(1826年)
にかけて造営された西浜御殿内の広大な大名庭園である。元々は、
紀州藩士山本理左衛門の下屋敷であったと伝わっている。総面積は33,000m2。
和歌山湾沿いの立地を利用して、海水を引き込んだ「汐入り」の池が特徴的で、
潮の干満に応じて細波が立ち、水面が上下する独特の風情がある。この池には、
日本庭園としては珍しい直線状の三ツ橋を渡しており、背後の天神山と
章魚頭姿山(たこずしやま)を借景としたこの構図は、中国の西湖を模したものと
伝えられている。この汐入の池は、海南市にある近代の温山荘園の作庭に影響を
与えることとなった。なお、日本の大規模な庭園で汐入の池をもつものは、
この他に東京都港区の浜離宮恩賜庭園だけである。
大名庭園としては、全国唯一の個人所有の庭園であり、平成3年(1991年)より平成6年(1994年)にかけ
文化庁指導の下、養翠亭解体修理工事が行われた。この御茶屋「養翠亭」の内部は原則非公開ではあるが、
毎月第1日曜日には月釜茶会「あさも会」(会員制)が開かれている。
治寶は西浜御殿に表千家家元や樂家当主、三井北家当主の三井高祐などを招いた。
平成7年(1995年)のNHK大河ドラマ「八代将軍吉宗」のロケ地である。
平成18年(2006年)11月に和歌山市の施設として、和歌山市指定文化財建造物「湊御殿」が園内桃畑跡に
移築復元され、内部が有料公開されている。


和歌山城西之丸庭園
江戸時代初期に、紀州藩初代藩主徳川頼宣が和歌山城北西隅の西之丸に
隠居所の御殿と共に築いた池泉回遊式庭園である。 虎伏山麓の斜面という
立地を生かして湧水を利用した2段の池と瀧を設け、さらに内堀の一部をもう一つの
池として庭園に取り込むことで広がりをもたせており、内堀の畔に池亭「鳶魚閣」を
配することにより連続性を確かにしている。
江戸時代初期築造の大名庭園において日本屈指の名園と評されていたが、
明治維新後は長らく荒廃していた。しかし城郭内に現存する庭園の遺存例は
極めて少なくその希少性もあって文化庁主導の下1970年代より大掛かりな
発掘調査と復元整備が開始され、1985年11月27日国の名勝指定を経て、
2006年4月に御橋廊下が
復元されている。